
髪に風を感じる権利を|デンマーク発「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」が高齢者を外へ連れ出す話
2012年にデンマーク・コペンハーゲンで生まれた「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」。ボランティアが三輪自転車の前席に高齢者を乗せ、思い出の場所へ走る活動が世界50カ国超に広がった理由と、日本の外出支援・社会参加への示唆を読み解く。
この記事のポイント
「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」は、ボランティアが三輪自転車(トライショー)の前席に高齢者を乗せて街や自然を走る活動で、2012年にデンマーク・コペンハーゲンで一人の通勤者オーレ・カソウが始めました。合言葉は「髪に風を感じる権利を」。施設に閉じこもりがちな高齢者を外の世界や思い出の場所へ連れ出すこの取り組みは、世界50カ国超に広がりました。日本でも外出支援・社会参加・閉じこもり防止という同じ課題を抱える介護現場にとって、特別な機材ではなく「人と外気と会話」で何が変わるのかを示すヒントになります。
目次
毎朝、自転車でコペンハーゲンの街を通勤していた一人の男性が、ある高齢者施設の前に座る年配の紳士に目を留めました。「この人も若い頃は自転車で風を切っていたのだろうか」。その小さな問いから、世界50カ国超に広がる活動が生まれたと聞いたら、少し意外に感じるでしょうか。
「サイクリング・ウィズアウト・エイジ(Cycling Without Age)」は、ボランティアが三輪の自転車に高齢者を乗せて街や自然を走る、ただそれだけの活動です。最新医療でも高額な設備でもありません。けれど、ほとんど話さなくなったとされていた女性が、自転車の上で一時間しゃべり続けた。そんな出来事が世界中で積み重なっています。この記事では、活動の成り立ちと広がりを一次資料で確認したうえで、「外に連れ出す」というシンプルな営みが、日本の介護現場や家族にとって何を意味するのかを考えます。
一台のレンタル自転車から始まった
きっかけは通勤途中の「気づき」
活動が始まったのは2012年、デンマークの首都コペンハーゲンです。当時47歳だったオーレ・カソウ(Ole Kassow)は、社会起業家として毎日自転車で通勤していました。道すがら高齢者施設の前に座る男性を見かけ、その姿が記憶に残ります。後日、故郷の昔の写真を眺めていたとき、ふと考えました。あの人も自分と同じように、若い頃は自転車が好きだったのではないか、と。
カソウは車いすを使う父のもとで育ち、移動の不自由が人をどれだけ孤立させ、偏見にさらすかを身をもって知っていました。そこで彼は「トライショー(trishaw)」と呼ばれる三輪自転車を一台レンタルし、近所のケアボー(Kærbo)高齢者施設まで走らせて、入居者に乗車を申し出ます。記録によれば、最初の乗客は一人の高齢女性と、その付き添いの介護者でした。日付は2012年8月14日。借りものの古いトライショーでの、たった一度の試みでした。
合言葉は「髪に風を感じる権利を」
トライショーは、運転手が後ろのサドルでペダルをこぎ、高齢者は前方の座席に並んで座る構造です。後部座席ではなく前席に座るので、視界をさえぎるものがなく、街並みも風も正面から受け止められます。この活動を象徴する合言葉が「髪に風を感じる権利を(The right to wind in your hair)」です。年齢や身体の状態にかかわらず、外気のなかを進む心地よさを味わう権利は誰にでもある、というメッセージでした。
カソウはこの最初の経験を一度きりにせず、ほかの入居者も次々と乗せていきます。手応えを得た彼は、コペンハーゲン市で市民社会の支援にあたっていた職員ドルテ・ペダーセン(Dorthe Pedersen)に声をかけました。二人は協力して五台の電動アシスト付きトライショーを購入し、ボランティアの運転手(活動では「パイロット」と呼ばれます)を集めて、施設の入居者10人を乗せて走り出しました。
口コミだけで世界50カ国へ
「次の日には30人」から世界へ
驚くのはここからの広がり方です。最初の10人を乗せた翌日には、口コミだけで新たに30人のボランティアが名乗りを上げたと記録されています。広告も大きな資金も使わず、乗った人・運転した人・それを見た家族の「またやりたい」という気持ちが、人から人へと伝わっていきました。やがてデンマーク国内の他都市が参加を希望し、活動は国境を越えていきます。
規模を示す数字は資料の時点によって異なりますが、いずれも非常に大きなものです。公式情報では、2020年までに50カ国へ広がり、累計150万人以上が乗車したとされます。さらに運営団体が公表する2025年1月時点の数字では、世界の拠点(チャプター)は3,050カ所以上、トライショーは4,900台超、訓練を受けたパイロットは39,000人以上に達しています。国連の地域情報センター(UNRIC)も、この活動を「世界数十カ国に広がった市民運動」として紹介しています。
「もう話さない」と言われた人が、一時間話し続けた
数字以上に活動の核心を伝えるのは、一台ごとに生まれる小さな物語です。創始者カソウは、コペンハーゲンで早い時期に乗せたガートルードという女性について語っています。周囲からは「もうほとんど話さない」と聞かされていたのに、自転車の上で彼女は一時間しゃべり続けたといいます。カソウは「私は彼女の証人になった」「自分の物語が忘れられずに誰かに受け継がれることが、彼女に大きな満足を与えた」と振り返ります。
こうした効果は印象論にとどまりません。2019年にはドイツの教育・養育・相談研究所(Institut für Bildung, Erziehung und Beratung)による調査が、トライショーでの外出が高齢者に総じて良い影響を与えると報告しました。新しい人との出会いが増え、外出が日々の生活の豊かさとして受け止められること。行動範囲が広がり、思い出のある場所をふたたび訪ねられること。とりわけ運転手やすれ違う人々との「会話」を乗客が楽しんでいることが指摘されています。風を浴びることそのものより、人とのつながりが戻る点に価値があるという見立てです。
関連する主な介護用語
日本の介護現場に、この話は何を投げかけるか
「閉じこもり」と「社会参加」という日本の課題に重なる
この活動が日本の私たちに関係するのは、扱っている課題がそのまま日本の介護の論点だからです。施設や自宅にこもりがちになり外出が減ること、人とのつながりが細っていくこと。これらは日本でも高齢者の閉じこもりや社会的孤立として、介護予防の重要テーマとされてきました。社会参加や活動の継続が認知機能やフレイルのリスク低下と関連することは、日本の大規模研究でも検討されています(社会参加と認知症リスクの研究)。「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」は、その「外に出て人とつながる」を、自転車という分かりやすい形に落とし込んだ実践だと読めます。
特別な設備ではなく「外出と会話」を設計する発想
注目したいのは、この活動が高額な医療機器やリハビリ装置ではなく、自転車一台とボランティアという身近な要素で成り立っている点です。日本の介護現場でも、外出支援やレクリエーション、散歩の付き添いは日常的に行われています。ただ人手や安全管理の壁から、屋内で完結しがちな面もあります。デンマークの事例が示すのは、外気のなかを移動しながら会話が生まれる体験そのものに価値がある、という視点です。乗客が前席に座って街を正面から眺める設計や、運転手が「介助者」ではなく対話の相手になる関係性は、日本の外出支援を考え直すヒントになります。
ボランティアと地域をどう巻き込むか
もう一つの示唆は、担い手を施設職員だけに閉じず、地域のボランティアへ開いた点です。翌日に30人が手を挙げた広がり方は、「高齢者を外へ連れ出したい」という気持ちが地域に潜在していることを示しています。日本でも地域包括ケアのもとで住民・NPO・社会福祉協議会との連携が進められており、世代間の交流や担い手不足の解消は共通の課題です。ベルギー・ヘールの里親ケアと同様、地域の普通の人々が無理なく関われる仕組みにできるかが鍵になります。
美談で終わらせないために
もちろん、海外の事例をそのまま理想化することには注意が必要です。日本は自転車インフラや気候、道路事情がデンマークと異なり、転倒や交通事故のリスク管理、運転ボランティアの確保と研修、雨天や猛暑への対応など、現実的なハードルは少なくありません。トライショーは安価ではなく、導入や維持の費用もかかります。それでも、この活動が問いかけているのは機材の話というより「高齢になっても外の世界とつながり続ける権利を、誰がどう支えるのか」という姿勢の話です。その問いは、設備の有無にかかわらず日本のどの現場にも投げかけられています。
参考文献・出典
- [1]
- [2]
- [3]
- [4]
まとめ
一台のレンタル自転車と、一人の「あの人も風を感じたいのでは」という想像から始まった「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」は、口コミだけで世界50カ国超へ広がりました。最新医療でも高額な設備でもなく、外気のなかを進む心地よさと、運転手との会話が戻る時間。それだけのことが、「もう話さない」と言われた人をふたたび語らせるのだとしたら、私たちが見落としているケアの形があるのかもしれません。
日本の現場や家族にとっても、外出支援・社会参加・閉じこもり防止・地域の担い手づくりは、まさに今の課題です。気候やインフラ、コストの違いをふまえれば、トライショーをそのまま輸入する必要はありません。それでも問いは残ります。高齢になっても外の世界とつながり続ける「髪に風を感じる権利」を、あなたの身近な場所では、誰がどう支えられるでしょうか。
執筆者
介護のハタラクナカマ編集部
編集部
介護業界の転職・キャリア情報を発信。厚生労働省の公的データと現場の声をもとに、介護職で働く方・転職を検討する方に役立つ情報をお届けしています。
続けて読む

2026/6/22
白衣を着ない公費の「認知症の村」|フランス・ランド村が研究とともに問う、暮らしの自由
フランス南西部ダックスにある公立の認知症ケア「ランド県アルツハイマー村」。2020年開設、120人が16軒の家で暮らし、白衣を着ない職員と住民・ボランティアが普通の街を営む。オランダ・ホグウェイとの違いと、研究を伴う公費運営が日本に問うものを読み解く。

2026/6/22
ヘッドホン越しに記憶が戻る|米国「Music & Memory」と映画『Alive Inside』が見せた、好きな曲の力
米国の社会福祉士ダン・コーエンが始めた「Music & Memory」。認知症で反応が乏しくなった高齢者に本人の思い出の曲を聴かせると表情が戻る。映画『Alive Inside』のヘンリーの物語と、日本の介護現場への示唆を一次ソースで読み解く。

2026/6/21
認知症の人が農場で「働く」オランダのケアファーム|世話される人から世話する人へ
オランダには千を超えるケアファーム(緑のケア農場)があり、認知症の高齢者が動物の世話や野菜づくりに参加する。研究では通常のデイケアより活動量・交流・屋外時間が増えると報告。日本の役割づくり・農福連携に何を示すかを読み解く。
このテーマを深掘り
関連トピック

白衣を着ない公費の「認知症の村」|フランス・ランド村が研究とともに問う、暮らしの自由

ヘッドホン越しに記憶が戻る|米国「Music & Memory」と映画『Alive Inside』が見せた、好きな曲の力

認知症の人が農場で「働く」オランダのケアファーム|世話される人から世話する人へ

心の病の人を「家族」に迎えて700年|ベルギー・ヘールの里親ケアが日本の地域共生に問うもの

テーブルに光が降ると、認知症の人が笑い出す|オランダ生まれの「魔法のテーブル」Tovertafel

ニワトリが高齢者を救う?|イギリス・HenPowerが引きこもりがちな高齢男性を変えた話

1950年代の町に「通う」|米サンディエゴの認知症デイ「タウンスクエア」が思い出に賭けた理由

バス停は「どこにも行かない」|ドイツの介護施設が生んだ、認知症ケアのやさしい工夫

高齢者ホームの中に保育園|米シアトル「the Mount」が見せる世代間ケアの底力

学生が高齢者ホームに無料で住む|オランダ発「よき隣人」が孤独を癒す世代間ケア
