
記憶を試さない物語づくり|米国「タイムスリップス」が認知症ケアに開いた"正解のない問い"
米国の演劇研究者アン・バスティングが1998年に始めたタイムスリップス。認知症の人に「正しく思い出すこと」を求めず、絵を見て自由に想像し一緒に物語をつくる創作プログラムの実話と研究、そして日本の回想法・レクへの示唆を紹介する。
この記事のポイント
米国の演劇研究者アン・バスティングが1998年に始めた「タイムスリップス(TimeSlips)」は、認知症の人に「正しく思い出すこと」を求めず、一枚の絵を見て自由に想像し、参加者の言葉を否定せずにつないで一つの物語をつくる創作プログラムです。記憶を試す質問(いつ・どこで)の代わりに、正解のない問いかけ(Beautiful Questions)で「失敗のない自己表現」を引き出します。この発想は、日本の介護現場でなじみ深い回想法やレクリエーションを、別の角度から照らし直すヒントになります。
目次
認知症のある人に向き合うとき、私たちはつい「昨日の昼ごはん、覚えていますか」「ここがどこか分かりますか」と尋ねてしまいます。良かれと思っての問いですが、答えられない経験が重なると、本人は自信を失い、口数が減っていくことがあります。記憶を試す問いは、ときに静かに人を追い込みます。
では、もし「思い出すこと」をいっさい求めなかったら、どうなるのでしょうか。米国の演劇研究者アン・バスティング(Anne Basting)が一九九八年に始めた創作プログラム「タイムスリップス(TimeSlips)」は、まさにその問いから生まれました。一枚の絵を見せて「この人に名前をつけるなら」と尋ね、出てきた言葉を一つも否定せず、みんなでつないで物語にしていく。正解がないからこそ、誰も失敗しません。
この記事では、タイムスリップスがどんな出来事から生まれ、研究でどこまで効果が確かめられ(そして何が確かめきれていないのか)を一次資料から整理したうえで、日本の介護現場でなじみ深い回想法やレクリエーションとどうつながるのかを考えます。
一枚のマールボロの広告から始まった
六週間、何をしても反応がなかった
バスティングはもともと、介護や医療の専門家ではありませんでした。演劇を専門とする研究者・大学教員です。一九九〇年代、彼女は米ウィスコンシン州ミルウォーキーにある、アルツハイマー病の人が暮らす介護施設の閉鎖フロアでボランティアを始めました。最初は、昔の思い出を語ってもらう「回想」をベースにした即興の活動を試したといいます。けれど、思うような反応は返ってきませんでした。本人のために用意したはずの「思い出してください」という働きかけが、かえって沈黙を生んでいたのです。
転機は突然訪れます。ある日、彼女は雑誌からたばこ「マールボロ」の広告(カウボーイの絵)を破り取り、こう切り出しました。「私たち、うまく思い出せないんだから、いっそ作っちゃいましょう」。記憶ではなく、想像の世界へ。そう発想を切り替えた瞬間、場の空気が変わりました。
「フレッド・アステアと結婚していて、住まいはオクラホマ」
参加者たちは、絵のカウボーイに自由に物語を与え始めます。名前は「フレッド」。バスティング本人が後年語っているところでは、その物語は「フレッド・アステア」へとふくらみ、「ジーン・オートリーと結婚している」「二人はオクラホマに住んでいる」と、即興のやりとりが四十五分も続いたといいます(事実かどうかは誰も問いません。皆で作る物語だからです)。
圧巻だったのは、その直後でした。六週間、ひと言も話さなかった女性が顔を上げ、ミュージカル「オクラホマ!」の歌をまるごと歌い出したのです。バスティングは、この出来事を自身の進路を変えた瞬間として繰り返し語っています。記憶を試すのをやめ、想像の扉を開いた途端、「もう何も残っていない」と思われていた人の中から、生き生きとした表現があふれ出したのです。
彼女はこの体験をきっかけに、一九九八年に助成を受けて創作プロジェクトを立ち上げ、その年に書いた戯曲の名前から「タイムスリップス」と名づけました。過去・現在・未来を行き来する物語の、時間がするりと滑るような感覚を表した言葉です。プログラムは二〇一三年に独立した非営利団体となり、現在では米国の大半の州と二十前後の国で、訓練を受けた進行役(ファシリテーター)が活動しています。バスティング自身は、その独創的な仕事に対してマッカーサー・フェローシップ(通称「天才賞」)を受けています。
「正解のない問い」で、誰も失敗しない
やり方はとてもシンプル
タイムスリップスの進め方は、驚くほど簡単です。五人から十人ほどで半円に座り、進行役が一枚の印象的な写真や絵を見せます。そして、答えが一つに決まらない問いを投げかけます。「この人に名前をつけるなら」「この人は今、どんな気持ちでしょう」「ここはどこでしょう」。出てきた言葉は、突拍子もないものでも、互いに矛盾していても、すべて受け止められ、その場で読み上げて全員に共有されます。最後に、ばらばらの言葉を一本の物語としてつないで読み返す。これで完成です。
バスティングはこうした問いを「ビューティフル・クエスチョン(Beautiful Questions、美しい問い)」と呼びます。正解がないので、間違えようがありません。だから参加者は「失敗のない自己表現」を体験できます。記憶の正確さを採点される場ではなく、その人の発想や感性そのものが歓迎される場になるのです。実際、英国でこの研修を受けた認知症研究者は、活動の特徴を「フェイラー・フリー(failure-free、失敗のない)」と表現し、毎回そこに笑いと活気が生まれたと記しています。
研究でわかったこと(と、わかりきっていないこと)
タイムスリップスは「感動的な逸話」だけのプログラムではありません。複数の研究で効果が検証されています。代表的なのは、フリッチュらが二〇〇九年に老年学の専門誌『The Gerontologist』へ発表した研究です。米国の二十の介護施設のうち十施設でタイムスリップスを実施し、残り十施設を比較対象とした大規模な比較で、実施した施設の入居者は、より生き生きと活動に関わり、覚醒度が高く、職員とのやりとりも増えていました。さらに職員の側にも、認知症のある入居者を以前より肯定的にとらえる変化がみられたといいます。
別の研究(ジョージとハウザー、二〇一四年)でも、創造性や生活の質(QOL)の向上、職員が入居者をより深く理解するようになるといった効果が報告されています。スイスでは美術館で実施した研究で参加者の気分が上向き、米ペンシルベニア州では医学生の認知症に対する見方が前向きに変わったとの報告もあります。
ただし、効果には限界もあります。二〇一九年に発表された米ペンシルベニア州の研究(参加者二十二人、対照群なし、六カ月間)では、軽度から中等度の人で興味・喜び・自尊心や職員とのやりとりが明らかに改善した一方、重度の認知症の人では量的な効果は乏しく、六カ月のあいだに興味がむしろ低下したケースも観察されました。認知機能の検査値そのものが上がるわけでもありません。タイムスリップスは記憶を治す治療ではなく、「いまここで」つながり、表現する喜びを取り戻すための手立てだと理解するのが正確です。
関連する主な介護用語
日本の介護現場に置きかえて考える
回想法との「似て非なる」関係
日本の介護現場には、すでに回想法という確立したアプローチがあります。昔の写真や懐かしい道具を手がかりに過去の思い出を語り合うこの方法は、認知症ケアの定番として広く実践されてきました。タイムスリップスは一見これと似ていますが、向いている方向が正反対です。回想法が「過去を正しく思い出す」ことに価値を置くのに対し、タイムスリップスは「思い出さなくていい、いまここで自由に想像していい」と促します。
この違いは、対象とする人にとって大きな意味を持ちます。記憶の手がかりがまだ多い段階の人には回想法が力を発揮しますが、進行して「思い出す」こと自体が負担になってきた人にとっては、思い出さなくてよい創作のほうが、安心して参加できる場合があります。どちらが優れているという話ではなく、その人のいまの状態に合わせて引き出しを増やす、という発想です。回想法の進め方を知っている職員なら、問いの立て方を「思い出す問い」から「想像する問い」へずらすだけで、明日から試せる引き出しが一つ増えます。
レクと声かけを、別の角度から照らす
もう一つの示唆は、日々のレクリエーションや声かけへの応用です。タイムスリップスの核心は、特別な道具でも長い研修でもなく、「正解を求めない問いを投げ、出てきた言葉を否定せず全部つなぐ」という姿勢そのものにあります。塗り絵や歌の会のような既存の活動でも、「上手にできましたね」ではなく「この色を選んだのはどうしてだと思いますか」と問い、返ってきた言葉を場で共有する。それだけで、採点される時間が、表現が歓迎される時間に変わります。
これは、認知症の人の尊厳と創造性をどう支えるか、という問いにも直結します。フランス発のユマニチュードや、米国発の音楽と記憶の取り組みと同じく、タイムスリップスは「失われたもの」ではなく「まだ残っている力」に光を当てる発想を共有しています。職員が「この人はもう何も分からない」という前提を手放したとき、研究の中である職員が「名前をくじで選んだだけなのに、その人たちがグループ全体を引っ張った。もう同じ目では見られない」と語ったように、関係そのものが変わっていきます。
もちろん、日本でそのまま輸入すればよいわけではありません。効果が重度の人には限定的であること、職員に時間的な余裕が要ること、文化や言語に合わせて問いや題材を選び直す必要があることは、海外の研究も率直に認めています。だからこそ、仕組みをまるごと真似るのではなく、「記憶を試さない」という発想だけを持ち帰る。それが現実的で、いちばん効くのかもしれません。
参考文献・出典
- [1]
- [2]
- [3]
- [4]
- [5]
まとめ
タイムスリップスが教えてくれるのは、認知症のある人と関わるときの「問いの向き」を変えるだけで、場の空気がまるで変わりうる、ということです。「正しく思い出せましたか」ではなく「あなたはどう思いますか」。記憶を採点する問いから、想像を歓迎する問いへ。六週間沈黙していた女性が歌い出したあの場面は、特別な才能ではなく、問い方一つで引き出されたものでした。
研究は、この方法が万能ではないことも正直に示しています。重度の人には効果が限られ、現場には時間も工夫も要ります。それでも、「もう何も分からない」という思い込みを手放した先に、笑顔や言葉が戻ってくることがある。あなたの目の前にいる人に、明日はどんな「正解のない問い」を投げかけてみますか。
執筆者
介護のハタラクナカマ編集部
編集部
介護業界の転職・キャリア情報を発信。厚生労働省の公的データと現場の声をもとに、介護職で働く方・転職を検討する方に役立つ情報をお届けしています。
続けて読む

2026/6/26
認知症の父が入院5週間で別人になった|英「ジョンズ・キャンペーン」が病院に求めた家族の付き添い
英国の作家ニッキ・ジェラードは、認知症の父ジョンが入院5週間の面会制限で急速に衰え亡くなった経験から2014年「ジョンズ・キャンペーン」を始めた。家族介護者が病院でそばに居られる権利を求めた運動の経緯と、日本の入院・せん妄予防への示唆を伝える。

2026/6/26
「もう何もできない」とは言わせない|米国生まれのナマステ・ケアが重度認知症の人に届ける、五感のやさしさ
米バーモント州の退役軍人ホームで2003年に生まれた「ナマステ・ケア」。重度認知症の人に、やさしいタッチ・音楽・香り・温かいタオルで五感の心地よさを届ける関わりを、研究のエビデンスと限界、日本の終末期ケアへの示唆とともに紹介します。

2026/6/24
インコ100羽が施設にやってきた|米「エデン・オルタナティブ」が挑んだ、孤独・無力感・退屈という三つの病
米ニューヨーク州の小さなナーシングホームで1991年、医師ビル・トーマスが入居者を蝕む「孤独・無力感・退屈」に着目し、犬・猫・100羽のインコ・植物・子どもを一気に持ち込んだ。施設文化変革「エデン・オルタナティブ」の実話と、日本の生活モデル介護への示唆を読み解く。
このテーマを深掘り
関連トピック

認知症の父が入院5週間で別人になった|英「ジョンズ・キャンペーン」が病院に求めた家族の付き添い

「もう何もできない」とは言わせない|米国生まれのナマステ・ケアが重度認知症の人に届ける、五感のやさしさ

インコ100羽が施設にやってきた|米「エデン・オルタナティブ」が挑んだ、孤独・無力感・退屈という三つの病

髪に風を感じる権利を|デンマーク発「サイクリング・ウィズアウト・エイジ」が高齢者を外へ連れ出す話

ヘッドホン越しに記憶が戻る|米国「Music & Memory」と映画『Alive Inside』が見せた、好きな曲の力

認知症の人が農場で「働く」オランダのケアファーム|世話される人から世話する人へ

心の病の人を「家族」に迎えて700年|ベルギー・ヘールの里親ケアが日本の地域共生に問うもの

テーブルに光が降ると、認知症の人が笑い出す|オランダ生まれの「魔法のテーブル」Tovertafel

1950年代の町に「通う」|米サンディエゴの認知症デイ「タウンスクエア」が思い出に賭けた理由

バス停は「どこにも行かない」|ドイツの介護施設が生んだ、認知症ケアのやさしい工夫

高齢者ホームの中に保育園|米シアトル「the Mount」が見せる世代間ケアの底力
