
ヘッドホン越しに記憶が戻る|米国「Music & Memory」と映画『Alive Inside』が見せた、好きな曲の力
米国の社会福祉士ダン・コーエンが始めた「Music & Memory」。認知症で反応が乏しくなった高齢者に本人の思い出の曲を聴かせると表情が戻る。映画『Alive Inside』のヘンリーの物語と、日本の介護現場への示唆を一次ソースで読み解く。
この記事のポイント
米国の社会福祉士ダン・コーエンが2010年に立ち上げた「Music & Memory」は、認知症で反応が乏しくなった高齢者に「その人個人の思い出の曲」をヘッドホンで聴かせる取り組みです。映画『Alive Inside(2014年)』で、うつむいて反応しなかった94歳のヘンリーが、好きなジャズを聴いた瞬間に目を見開き歌い出す姿が世界に衝撃を与えました。なぜ音楽は記憶に届くのか、そして日本の介護現場が「個別化された音楽」から何を学べるのかを、複数の一次ソースで読み解きます。
目次
その男性は、車椅子の上でうつむき、両手を固く組んだまま、まわりの世界にほとんど反応しませんでした。94歳、進行した認知症。名前を呼んでも返事はなく、施設のスタッフが二年間どんなふうに声をかけても、彼が表情を見せることはなかったといいます。
ところが、一組のヘッドホンが彼の頭にそっと載せられた瞬間、すべてが変わりました。流れてきたのは、彼が若い頃に愛したジャズ。男性は目を見開き、背筋を伸ばし、体を揺らしながら口ずさみ始めます。やがて、好きだったバンドリーダーについて生き生きと語り出しました。ヘッドホンを外したあとも、しばらくのあいだ彼は「自分」を取り戻していました。
この男性の名前はヘンリー。彼の映像は、米国の社会福祉士ダン・コーエンが始めた「Music & Memory(ミュージック・アンド・メモリー)」という取り組みと、ドキュメンタリー映画『Alive Inside(アライブ・インサイド)』を通じて世界に広まりました。一人の人間が「自分の好きな曲」によって、ふたたび自分自身に出会う。この記事では、複数の一次ソースをもとにその出来事を確かめながら、なぜ音楽が記憶と感情に届くのか、そして日本の介護現場にとってこの話がどんな意味を持つのかを考えます。
「もし自分が施設に入ったら、好きな曲を聴きたい」一人の発想から始まった
ラジオで聞いたiPodの話から
Music & Memory の始まりは、とても個人的な発想でした。運営団体の公式サイトによれば、創設者のダン・コーエンは「もし自分がいつか介護施設に入ったら、自分の好きな1960年代の音楽を聴きたい」と考えたのがきっかけだといいます。当時、iPodが世界中に普及しているというラジオの報道を耳にして、「では、なぜ高齢者施設の入居者向けには無いのだろう」と疑問を持ったのです。
調べてみると、入居者一人ひとりの好きな曲を提供している長期ケア施設は一つも見つかりませんでした。そこでコーエンは自分で動き始めます。ニューヨーク州ロングアイランドのケア施設に電話をかけ、ボランティアの音楽プログラムを試させてほしいと管理者を説得しました。手元にあったのはノートパソコン1台とiPod3台。彼は10人の高齢者と一緒に、それぞれのプレイリストを作っていきました。
2008年に200台のiPod、2010年に非営利団体へ
コーエンは社会福祉士(MSW)の資格を持つ人物で、もともとは米国教育省のコンサルタント・トレーナーでもありました。非公式には2006年ごろから構想を温め、2008年には個人的なつながりを通じてニューヨークの長期ケア施設に約200台のiPodを届けています。そして2010年、Music & Memory は全米規模の非営利団体として正式に設立されました。
彼が二週間ごとに施設へ通い、一人ひとりのプレイリストを磨き続けた結果、参加した高齢者は100曲を超える「自分だけの愛聴曲リスト」を持つようになりました。コーエンは後年のインタビューで「入居者の気分がすぐに明るくなるのを見た」「スタッフも、参加者が落ち着き、自分の音楽を持てることを喜んでいると気づいた」と振り返っています。
映画『Alive Inside』とヘンリーの「目覚め」が世界に届いた
1本のクリップが拡散し、3年間の映画になった
この取り組みを記録したのが、マイケル・ロサート=ベネット監督によるドキュメンタリー映画『Alive Inside: A Story of Music and Memory』です。英語版Wikipediaなどによれば、同作は2014年に公開された78分の米国映画で、2014年のサンダンス映画祭・米国ドキュメンタリー部門で観客賞(Audience Award)を受賞しました。
監督は当初、コーエンの活動をたった1日だけ撮影するつもりだったといいます。ところが、その様子に強く引き込まれ、撮影は3年間に及ぶプロジェクトへと変わりました。制作途中に公開されたヘンリーの映像クリップは2012年にインターネットで拡散し、Music & Memory の認知度を一気に押し上げます。専門メディアALZFORUMはこのクリップが当初およそ150万回再生されたと伝えており、その後さらに再生回数を伸ばしていきました。
「音楽は人を呼び覚ます芸術だ」
映画の中で、神経学者のオリヴァー・サックス(『音楽嗜好症(Musicophilia)』の著者)は、ヘンリーの変化をこう解説します。哲学者カントが音楽を「呼び覚ます芸術」と呼んだことを引きながら、「ある意味でヘンリーは自分自身を取り戻している。彼は自分が誰かを思い出し、音楽の力でしばらくのあいだ自分の人格を再び手にしたのだ」と語りました。Music & Memory公式の記録によれば、ヘンリーはお気に入りのバンドリーダー、キャブ・キャロウェイについて熱心に語り、スキャット(即興の歌)を披露し、「I’ll Be Home for Christmas」を歌い上げたといいます。
映画にはヘンリー以外にも、薬を拒んで苛立っていた男性が音楽によって穏やかになる姿や、二年間使い続けていた歩行器を脇に置いて踊り出す女性の姿が収められています。サックスは映画の中で、音楽に関わる脳の部位はアルツハイマー病などの認知症でも比較的損なわれにくいと説明しています。だからこそ、ことばや日々の記憶が失われても、深く刻まれた「好きな曲」は最後まで残り、感情や記憶への裏口になりうるのです。
日本の介護現場が「個別化された音楽」から学べること
「みんなで歌う」から「その人の一曲」へ
日本の高齢者施設でも、音楽はレクリエーションの定番です。童謡や唱歌をみんなで歌う時間は、多くの現場で大切にされてきました。けれども Music & Memory が投げかけるのは、少し角度の違う問いです。それは「集団で同じ曲を歌う」ことではなく、「その人の人生に刻まれた、その人だけの一曲」を届けることに価値があるのではないか、という視点です。
人が10代後半から20代前半に繰り返し聴いた音楽は、感情と強く結びついて記憶に深く残るとされます。Brown大学の研究者も、こうした「若い頃の好きな曲(early preferred music)」が、認知症が進んでも残りやすいと説明しています。これは、利用者を「認知症の高齢者」という集団としてではなく、固有の人生を歩んできた一人の人間として見る、パーソンセンタード・ケア(その人を中心に置くケア)の考え方とも響き合います。
研究が示す効果と、その慎重な読み方
個別化された音楽には、気分の改善や興奮の軽減といった効果が報告されています。米国カリフォルニア大学デービス校の研究チームが2020年に学術誌JAMDAで報告した大規模調査では、カリフォルニア州の265施設・4,107人の入居者を対象に、Music & Memory を利用した認知症のある人で、抗精神病薬の使用が四半期あたり13%、抗不安薬が17%減少したとされます。日本でも、認知症の行動・心理症状(BPSD)に対する抗精神病薬の使用には慎重さが求められており、薬に頼りすぎない非薬物的なアプローチの一つとして、音楽は注目に値します(関連: 認知症のBPSDに抗精神病薬を使うリスクと「やめる」研究エビデンス)。
ただし、効果を過大に語るのは禁物です。Brown大学が2019年に54施設で実施したランダム化比較試験では、スタッフが記録する日常の行動評価では有意な変化が見られなかった一方、観察された時間帯では音楽を受けた入居者の興奮した言動が少なかったと報告されています。つまり「万能の特効薬」ではなく、効果の出方は測り方によっても変わる、慎重に見るべき支援だということです。音楽療法そのものの研究エビデンスについては別途まとめています(音楽療法は認知症のBPSD・QOLに効くか)。
道具は安価でも、難しいのは「その人を知ること」
この取り組みの示唆深いところは、必要な道具が音楽プレーヤーとヘッドホンだけ、という点です。高価な機器はいりません。本当に難しいのは、「その人が人生のどの時期に、どんな曲を、誰と聴いていたのか」を知ることです。それは家族への聞き取りであり、本人の表情を読み取る観察であり、ときには手がかりの少ないなかでの推測でもあります。Music & Memory の研修で「ミュージック・ディテクティブ(音楽の探偵)」と呼ばれるこの作業は、まさに利用者の人生史に丁寧に分け入る営みです。知覚や感情に働きかける日本発の技法とも通じるものがあります(ユマニチュードは認知症ケアに効果があるか)。介護職にとっては、日々の関わりの中で集めた小さな情報が、そのまま支援の質に直結することを思い出させてくれます。
参考文献・出典
- [1]
- [2]
- [3]
- [4]
- [5]
- [6]
まとめ
ヘンリーがヘッドホン越しに「自分」を取り戻した数分間は、特別な薬や高価な機器によるものではありませんでした。彼の人生に深く刻まれた「好きな曲」が、認知症で覆われていた記憶と感情への裏口を開いたのです。Music & Memory と映画『Alive Inside』が示したのは、ケアの本質が「その人を一人の固有の人間として知ろうとすること」にある、というシンプルで力強いメッセージでした。
同時に、その効果は測り方によって見え方が変わり、万能ではないことも研究は教えてくれます。だからこそ大切なのは、目の前の一人にとっての「あの曲」を、家族や本人との対話の中から探し当てる地道な営みです。あなたが関わっている人は、人生のどの時期に、どんな曲を、誰と聴いていたのでしょうか。その一曲を知ることから、ケアの新しい入口が開くのかもしれません。
執筆者
介護のハタラクナカマ編集部
編集部
介護業界の転職・キャリア情報を発信。厚生労働省の公的データと現場の声をもとに、介護職で働く方・転職を検討する方に役立つ情報をお届けしています。
続けて読む

2026/6/21
認知症の人が農場で「働く」オランダのケアファーム|世話される人から世話する人へ
オランダには千を超えるケアファーム(緑のケア農場)があり、認知症の高齢者が動物の世話や野菜づくりに参加する。研究では通常のデイケアより活動量・交流・屋外時間が増えると報告。日本の役割づくり・農福連携に何を示すかを読み解く。

2026/6/21
心の病の人を「家族」に迎えて700年|ベルギー・ヘールの里親ケアが日本の地域共生に問うもの
ベルギーの小さな町ヘール(Geel)は、約700年にわたり精神疾患や障害のある人を一般家庭が『下宿人』として家族に迎え入れてきた。OPZ Geelが支える世界最古級の地域精神ケアを、日本の地域共生社会・脱施設の視点で読み解く。

2026/6/19
テーブルに光が降ると、認知症の人が笑い出す|オランダ生まれの「魔法のテーブル」Tovertafel
オランダ・デルフト工科大学の研究から生まれた「魔法のテーブル(Tovertafel)」。天井から光のゲームをテーブルに投影し、触れると反応する。中等度から重度の認知症の人の無気力(アパシー)に届く海外の試みを、日本の認知症ケアの視点から読み解く読み物。
このテーマを深掘り
関連トピック

認知症の人が農場で「働く」オランダのケアファーム|世話される人から世話する人へ

心の病の人を「家族」に迎えて700年|ベルギー・ヘールの里親ケアが日本の地域共生に問うもの

テーブルに光が降ると、認知症の人が笑い出す|オランダ生まれの「魔法のテーブル」Tovertafel

ニワトリが高齢者を救う?|イギリス・HenPowerが引きこもりがちな高齢男性を変えた話

1950年代の町に「通う」|米サンディエゴの認知症デイ「タウンスクエア」が思い出に賭けた理由

バス停は「どこにも行かない」|ドイツの介護施設が生んだ、認知症ケアのやさしい工夫

高齢者ホームの中に保育園|米シアトル「the Mount」が見せる世代間ケアの底力

学生が高齢者ホームに無料で住む|オランダ発「よき隣人」が孤独を癒す世代間ケア
